文化人大野修理大夫治長
淀殿や豊臣秀頼公の側近として知られる大野治長には文化人的な面があり、大名茶人として千利休の高弟のなかでも有名な古田織部正重然の弟子であったようです。
織部茶会記によると
慶長十三年正月七日朝
御門跡様、大野修理殿、少二法印、宗円(春屋宗園)と。
慶長十五年十二月二十七日昼
大修理殿(大野修理大夫治長)、桑伊賀殿(桑山伊賀守元晴)、同与兵門殿、土方丹後殿(土方丹後守雄氏)
慶長十六年正月七日昼
大相模殿、浅弾正殿、鳥左京殿、酒左衛門尉殿、岡太郎左殿、神五兵衛殿、阿備中殿、竹伊豆殿、大 修理殿、桑伊賀殿、嶋次兵殿
織田有楽斎の茶湯日記である有楽亭茶湯日記によると
慶長十六年三月十九日朝
伊藤丹後 堀田図書 大野修理
慶長十七年七月十日晩
慶長十七年十月十ニ日昼
福富兵部 大野主馬 丹羽勘解由
慶長十八年正月十一日昼
片桐市正 大野修理 伊藤丹後
慶長十八年六月十六日昼
道ヒ 大野修理 石川肥後
慶長十八年七月十一日朝
大野壱岐守 佐竹良順 津田小平治
慶長十九年ニ月二十日朝
片桐市正 大野修理 速水甲斐守
慶長十九年五月十五日昼
慶長十九年七月十一日朝
大野壱岐守 赤坐三右エ門 槙原八蔵
慶長十八年九月二十七日 秀頼公天満へ御成
御相伴 大野修理 武野紹鴎の子宗瓦
武野紹鴎・・・堺の商人、茶人
以上
重而尊書忝
存候、御座敷出
来仕候由、近日
罷上御茶可被下候、
猶期貴面候、恐惶
謹言
大野修理大夫
十月九日 治長 (花押)
信門主様
尊報
また弟の大野主馬首治房についても茶人 であり
慶長十八年九月ニ口切ニ参り候へとも留不見候
御門跡様、大野主馬殿、少二法印、徳安、道越と重而留を見出書可候。以上。
(織部茶会記)
公家や御門跡等の日記に記され た大野治長
慶長七年十二月二十四日
慶長八年十一月二十日
大野修理大夫、義演に植木の柏と樅(もみ)の木を所望する (義演准后日記)
慶長八年十一月二十五日
義演、大野修理大夫へ所望された柏木を十二本贈る (義演准后日記)
治長は、義演から贈られた柏木を庭木として利用したのかどうかわからないですが、仮にも茶室の庭木として利用した場合には、茶人大野治長のひとつの趣向かも知れまん。大坂冬の陣の講和の後に織田有楽の屋敷と大野修理の屋敷が壊され、その木材等で堀を埋め立てたと伝えられており、屋敷と共に治長の趣向を凝らしたであろう茶室が無残にも壊され、治長らが抗議をしても面会すらしなかったようなので、なんという集団なのかと思わずにはいられません。
慶長十二年四月十八日
慶長十三年四月十八日