京都妙心寺と大野佐渡守定長、大野修理大夫治長

京都妙心寺の塔頭、雑華院さんに大野佐渡守定長と大蔵卿局夫妻もしくは大野修理大夫治長と妻南陽院夫妻の供養塔があります。なぜわかるのかと言えばご住職が大野治長夫妻の供養塔と仰せだったからです。400年近くも代々のご住職に引き継がれてきたのでしょう。雑華院過去帳には大野定長夫妻と大野治長夫妻の法名が記されていますので、どちらかの供養塔であろうと考えられます。私の推測では、利休七哲の一人であり、豊臣秀吉公の馬廻りであった牧村兵部利貞の弟である一宙東黙が雑華院の開山なので、お茶や馬廻りの役割を通して交流のあった牧村利貞の弟に、治長が父親の大野佐渡守定長の供養を依頼したのかなと考えております。ちなみに、雑華院さん周辺の寺院はほとんど近江や尾張、美濃出身者の菩提寺ですので、大野佐渡守定長の供養塔であろうと大野修理大夫治長の供養塔であろうと、大野氏は尾張出身と私は考えるところであります。雑華院さんは非公開寺院でございますので、ご了承下さい。

 

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真田幸村と大野治長

大野治長大坂冬の陣の際に、真田信繁の城から出る作戦を却下したと言われています。信繁が真田丸を築いた際には信繁の陣の後方に兵を配置し、信繁が大坂城に攻め込んできた場合の対応をしていたとも言われています。信繁から見れば、さぞやりにくかったことでしょう。真田丸の後方に兵を配置したのは、兄の真田信幸が徳川方である以上やむをえないと考えられます。
しかし、二人は秀吉公の元御馬廻衆であり昔から見知った間柄であるはずであり、治長は右大臣秀頼公の直臣でもあるので、治長の考えが採用されても仕方のないことです。真田幸村を軽く扱ったということでは決してないはずです。
真田信繁豊臣秀吉の重臣大谷吉継の娘を妻としておりました。妻の父である大谷吉継関ケ原の戦いで西軍の大将でした。そのような背景もあり、何としても徳川家康を倒したいという思いがあったのでしょう。夏の陣では徳川家康の本陣まで迫り、家康を敗走させました。その戦いぶりを薩摩の島津氏は「真田 日本一の兵 いにしえよりの物語にもこれなき由」と称賛しています。
圧倒的な不利でも信念で戦い通した真田信繁(幸村)は、現在だけでなく江戸時代から人々の関心を集めていました。

真田丸総集編 真田幸村(信繁)と大野治長、豊臣秀吉の御馬廻衆

真田丸の総集編を見て、真田幸村大野治長も最初は共に秀吉公の御馬廻衆なので、実は両者はある程度仲が良かったのではないかと思いました。大坂の陣の際は、中には大野治長の下では働きたくないと大坂方での参戦を見送った武将もいるようであり、幸村が九度山から大坂城に到着して、最初に山伏姿で大野治長の屋敷を訪れたとの逸話も残ってますので、昔の仕事仲間という感じがしました。

大野治長と丹後大野城址及び奈良県磯城郡田原本町味間

大野治長は一万五千石ほどの所領を有していたと伝えられており、領地については京都府京丹後市大宮町にある大野神社境内のあたりではないかと推測されています。大宮町の案内板によると、「当地は、豊臣家の武将大野治長、父大野道犬ら大野一族の出生地である。天正17年(1589)豊臣秀吉は大野道犬の武功と、その妻大蔵局が淀君の乳母であった労に報い、和泉佐野と当大野で壱万石余を与え、当地(現大野神社境内)に居城を築き、側近の大野道犬を代官として赴任させた。この間、郷土大野村付近一帯において近世発展の基盤となる広大な大野河原の開拓等を行った。道犬は文禄元年征韓の役に出陣し勇名を轟かせるなど秀吉の家臣として活躍。元和元年大坂夏の陣におい て、道犬の子、治長、治房らは豊臣秀頼淀君母子を守り家康との大軍と戦ったが、武運つたなく一族すべて豊臣家に殉じた。」と記されています。
 
領地の飛地
慶長年間(1596-1615) 豊臣家家臣 大野治長領 「慶長郷帳」 あしま村 村高 1,005石
 
私の見解といたしましては、大野治長の父は大野佐渡守定長であり、理由は愛知県の津島神社に大野佐渡守が送った書状が残っているからでして、尾濃村由緒留という史料にも大野氏の系図が掲載されているからです。
愛知県一宮市大野城
http://sakuraoffice.com/ounozyou.html
大野治長の父、大野佐渡守定長が豊臣鶴松の病気平癒の祈願を尾張津島神社に依頼したと思われる書状。
 
貴札令拝見候如仰先度は色々御馳走令祝着候然者 若君
様之御まほり給候早々持せ上申へく候御陣前ハ隙有間敷
候間御留守ニ参候て可申入候京より御まほりの御禮ある
へく候何様以面具可申入候恐々謹言
 六月廿七日        大佐(大野佐渡守)
                     玄三(花押)
 右馬大夫殿(津島神主)
          貴報          (張州雑志より)
尾張津島神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE

秀吉公の側近に大野道犬という武将が存在していたかどうかについては、当時の史料にはそのような武将はおりません。
征韓の役に道犬が出陣したという事については、名護屋城本丸の側に大野治長陣跡が存在していたとの記録がありますので、道犬ではなく大野治長が征韓の役に出陣したと考えられます。
 
名護屋城大野治長陣跡
http://www.k3.dion.ne.jp/~tnk/01siro/hizen-nagoya/hizen-nagoya.html
http://xantosiro.atumari.net/qsg04
大野道犬ではなく大野修理治長が壱万石余を有していて、大野村付近で近世発展の基盤となる広大な開拓等を行ったとするならば、治長の領地経営の一つの功績なのでしう。
 
現在は京都の自然200選になっています。http://www.pref.kyoto.jp/select200/historical02.html
大野氏と神社仏閣については、治長の弟、大野治房豊臣秀頼公に命じられ、代官川村久米を普請奉行として、建立した大阪の長慶寺があります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%85%B6%E5%AF%BA_(%E6%B3%89%E5%8D%97%E5%B8%82)
大野治長については、藤原氏氏神である京都吉田神社の斎場所大元宮の正遷宮に勅使、烏丸光広と参列したり、豊国祭に豊臣秀頼公の名代として参列したというものがあります。