大野治房 花押

従五位下信濃守 治長子

豊臣期武家口宣案集 (有広) 上卿 六条中納言 ---- (慶長十九年七月三日) 大野 豊臣 頼直 叙従五位下 信濃守 (日野) (蔵人頭左中弁藤原光慶 奉)羽柴秀頼家臣。治長子

従五位下主馬首 大野治房

豊臣期武家口宣案集という本に、大野治房が従五位下主馬首に叙任されたとありました。 (頼宣) 上卿 葉室中納言 慶長七年四月十一日 宣旨 大野 豊臣信吉 宜叙従五位下 (甘露寺) 蔵--(人頭右中弁藤原経遠) 奉 同任主馬首

京都妙心寺と大野佐渡守定長、大野修理大夫治長

京都妙心寺の塔頭、雑華院さんに大野佐渡守定長と大蔵卿局夫妻もしくは大野修理大夫治長と妻南陽院夫妻の供養塔があります。なぜわかるのかと言えばご住職が大野治長夫妻の供養塔と仰せだったからです。400年近くも代々のご住職に引き継がれてきたのでしょう…

真田幸村と大野治長

大野治長は大坂冬の陣の際に、真田信繁の城から出る作戦を却下したと言われています。信繁が真田丸を築いた際には信繁の陣の後方に兵を配置し、信繁が大坂城に攻め込んできた場合の対応をしていたとも言われています。信繁から見れば、さぞやりにくかったこ…

真田丸総集編 真田幸村(信繁)と大野治長、豊臣秀吉の御馬廻衆

真田丸の総集編を見て、真田幸村も大野治長も最初は共に秀吉公の御馬廻衆なので、実は両者はある程度仲が良かったのではないかと思いました。大坂の陣の際は、中には大野治長の下では働きたくないと大坂方での参戦を見送った武将もいるようであり、幸村が九…

大野治長と丹後大野城址及び奈良県磯城郡田原本町味間

大野治長は一万五千石ほどの所領を有していたと伝えられており、領地については京都府京丹後市大宮町にある大野神社境内のあたりではないかと推測されています。大宮町の案内板によると、「当地は、豊臣家の武将大野治長、父大野道犬ら大野一族の出生地であ…

文化人大野修理大夫治長

淀殿や豊臣秀頼公の側近として知られる大野治長には文化人的な面があり、大名茶人として千利休の高弟のなかでも有名な古田織部正重然の弟子であったようです。織部茶会記によると 慶長十三年正月七日朝 御門跡様、大野修理殿、少二法印、宗円(春屋宗園)と…

大野治長の出身

大野治長の出身については、丹後説や尾張説、近江説が今のところ有力なようですが、私は尾張説と考えております。尾濃村由緒留という本に詳細が書かれておりまして、全面的に全てその通りとすることはできないですが、ある程度の信長公から秀吉公に時代が移…

大野治長と京丹後市大野神社及び奈良県磯城郡田原本町味間

大野治長といえば大坂城のイメージがありますが、治長の領地と伝わる京都府京丹後市大宮町にある大野神社も治長に関する場所の一つです。 口大野(京丹後市大宮町) 飛地でしょうか。奈良県大神神社の近くです。 慶長年間(1596-1615) 豊臣家家臣 大野治長領…

堺の町と大野道犬(道見)

大坂城下で戦をしたとのことで大野道犬(道見)治胤が大坂の陣後に堺に引き渡されたようなのですが、大坂城下で戦をせざるを得なくなったのは、元はと言えば「国家安康君臣豊楽」という鐘の銘文に訳のわからない言いがかりを付けた方広寺鐘銘事件や、大坂冬…

淀殿の乳母大蔵卿局

淀殿の乳母として知られる大蔵卿局は、その生涯のほとんどを淀殿に付き従い過ごしてきました。浅井三姉妹の長女、淀殿の乳母として共に過ごすからには浅井家から見ても織田家から見てもそれなりの教養が備わった人物でなければならないと思われます。大蔵卿…

豊臣秀吉が築いた初代大坂城 石垣公開プロジェクト

www.toyotomi-ishigaki.com 先日、大阪城に行きましたが、太閤秀吉公が築かれた初代大坂城の石垣を見学できるようにするプロジェクトが進んでいるようです。大坂城古地図をによると大野治長の屋敷は現在の西の丸にあったそうであり、今回の公開場所とは違い…

淀殿と豊臣秀頼公

豊臣家は摂関家ですので、関ヶ原後に領地が減らされたとしても秀頼公に左大臣や関白の座がまわってくる可能性がありました。当時の公家等の日記によると一年の節目には公家や御門跡が大坂城に登城なさっていたようなので、淀殿は摂関家である豊臣家が京都か…

名護屋城と大野治長陣跡

私は名護屋城天守台から海の方を見ましたが、徳川家康の陣と天守台の間に大野治長の陣があるという位置関係でした。つまりは、もし家康が本丸に攻め込んできた場合、最後の砦は大野治長の陣しかないという位置関係です。これを見た時に、治長が大蔵卿局の息…

真田丸や大坂城と大坂夏の陣

大坂夏の陣の合戦図屏風を見ると、雑兵達が狼藉をしている姿が確認できますが、通常は禁制を立てて規律を守らせるはずの軍のトップは何をしているのかと思いました。喧嘩両成敗の原則はどうなっているのかと思わずにはいられません。

右大臣豊臣秀頼公と大野修理大夫治長

ドラマを見ていて思ったのですが、右大臣を補佐するのは通常は内大臣や大納言中納言参議あたりのはずですが、四位や五位クラスの大名では差がありすぎです。このあたりも豊臣が厳しい戦いを強いられるところだと思いました。