淀殿と豊臣秀頼公

豊臣家は摂関家ですので、関ヶ原後に領地が減らされたとしても秀頼公に左大臣や関白の座がまわってくる可能性がありました。当時の公家等の日記によると一年の節目には公家や御門跡が大坂城に登城なさっていたようなので、淀殿摂関家である豊臣家が京都から離れた場合、公家等と交流しにくくなってしまうと考えたのではないでしょうか。駿府側からの大坂からの転封要求には応じられないとしたのは理解できます。転封要求に応じた場合には転封につぐ転封でどこかに追いやられ、いつのまにか五千石くらいにされていたと考えます。ただ、格式だけは高いとのことで十万石格の扱いを受けていたように想像します。そのような扱いの藩も存在していたようです。駿府側の言う通 りにしていると、豊臣家は摂関家でなくなり、京都から離され公家や御門跡と交流できなくなり、石高は減らされ正二位や従一位の大臣や関白どころか正四位少将くらいの藩主か旗本になっていたように想像されます。そこで留まればいいですが、場合によっては江戸時代の法体系の中で、改易という争いの場すら与えられないまま豊臣家が消滅する可能性も否定出来ないと考えられます。豊臣家が滅亡する可能性はあるが秀頼公が左大臣や関白が目前の大阪城主の立場を守り続けようとするのか、どこかの小藩の藩主か旗本として豊臣家を存続させるのかの選択で、秀頼公と淀殿大阪城主の立場を貫こうとされたのですからそのご意思は尊重すべきと私は考えております。
淀殿やその周辺の武将が大坂城落城の 原因とのご意見があるようですが、駿府側の言う通りにしていると豊臣家が明治になるまで存続したのかは誰にもわからないところです。国家安康 君臣豊楽と銘文に書いたでけで開戦の端緒とし、堀を埋め立て再度開戦した方より、大坂城内で大坂城を守ろうとした側が落城の原因になってしまうのがよくわかりません。国家安康 君臣豊楽と銘文に書いただけで開戦の端緒としたり、落城後に武器を身に付けない人々を攻撃した兵士を黙認したり、どうなっているのかと思わずにはいられないです。
淀殿豊臣秀頼公が神社仏閣を建て直したことについて、様々な御意見があるようですが、伏見城の遺構が神社仏閣で再利用され、それ以外で淀殿や秀頼公によって安土桃山時代の建物が建てられたので、安土桃 山時代の建築技術を現代の日本に示した面もあると思います。淀殿や秀頼公により建立された建物のほとんどが国宝か重要文化財であり、中には世界遺産に含まれているものまでありますので、淀殿や秀頼公のはたされた役割は大きいと私は考えております。