淀殿の乳母大蔵卿局

淀殿の乳母として知られる大蔵卿局は、その生涯のほとんどを淀殿に付き従い過ごしてきました。浅井三姉妹の長女、淀殿の乳母として共に過ごすからには浅井家から見ても織田家から見てもそれなりの教養が備わった人物でなければならないと思われます。大蔵卿局は醍醐の花見の際に和歌を残し、土佐の山内家や中納言上杉景勝に送った自筆と考えられる書状(上杉景勝宛ては米沢市上杉博物館所蔵)は、私は書の専門家ではないが芸術的に感じられ、茶人としても知られる長男大野修理大夫治長、次男大野主馬首治房の親であり、淀殿が右大臣秀頼公の母として大坂城の実力者となった際には乳母から秘書官のような役割を果たして公家や御門跡と交流するなど、文化人的な面を見せて います。淀殿につきましても和歌や自筆書状を残しておりますので、幼き頃の淀殿に和歌や書を教えたのは大蔵卿局である可能性はあり得ると考えております。和歌や書を残し、茶人の親であり公家や御門跡との交流など、そのような公家社会で通用する作法をどのように身に付けたのかと思いますので、場合によっては大蔵卿局の出自は公家社会に近いところの可能性は否定はできないと考えております。あるいは武家出身でありながら公家社会に近いところで育ってきた可能性もあり得ると考えています。そのように育ってきた環境から淀殿の乳母に選任されたと考えるのも自然であると思います。
方広寺の銘文について駿府に釈明に行き、そこでの出来事から大坂冬の陣、夏の陣へとつながっていくことから 大蔵卿局について様々な御意見があるようですが、大蔵卿局駿府での様子を正確に主君である秀頼公や淀殿に伝えたに過ぎず、淀殿の侍女として当たり前のことをしたに過ぎないと考えております。駿府側は離間の計を行ったの一言で大蔵卿局の方は様々な御意見があるのはよくわからないところです。
一方の徳川家康は幼少の頃から三河の殿様であり、人質として駿河尾張で過ごして禅僧から教育を受けて育っています。政治や軍略などを学んでいたようです。家康は武家として育って、秀頼公は公家社会の最上位である摂関家で過ごし、側近は文化人的な大蔵卿局の息子、大野治長など政治や軍略どころかせいぜい秀頼公や淀殿に仕える際の秘書官としての作法しか大蔵卿局から学んでなさそうであり武家 対公家の対決ではどちらが勝利するかは言わずと知れますが、なぜか侍女や侍女の息子として主君を支えた側が、秀頼公から援軍を依頼されながらも秀頼公を支えもしなかったかつての側近大名たちより様々な御意見があるというのもどうなのかなと思ってしまいます。大蔵卿局の息子、治長などは夏の陣直前に大坂城から脱出し、京都で茶の湯をしながらの日々を送った方が後世の評価が高まったというのなら、御当人たちはどのように思うのであろうと想像すらできません。