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大野治長と丹後大野城址

大野治長は一万五千石ほどの所領を有していたと伝えられており、領地については京都府京丹後市大宮町にある大野神社境内のあたりではないかと推測されています。大宮町の案内板によると、「当地は、豊臣家の武将大野治長、父大野道犬ら大野一族の出生地である。天正17年(1589)豊臣秀吉は大野道犬の武功と、その妻大蔵局が淀君の乳母であった労に報い、和泉佐野と当大野で壱万石余を与え、当地(現大野神社境内)に居城を築き、側近の大野道犬を代官として赴任させた。この間、郷土大野村付近一帯において近世発展の基盤となる広大な大野河原の開拓等を行った。道犬は文禄元年征韓の役に出陣し勇名を轟かせるなど秀吉の家臣として活躍。元和元年大坂夏の陣におい て、道犬の子、治長、治房らは豊臣秀頼淀君母子を守り家康との大軍と戦ったが、武運つたなく一族すべて豊臣家に殉じた。」と記されています。私の見解といたしましては、大野治長の父は大野佐渡守定長であり、理由は愛知県の津島神社に大野佐渡守が送った書状が残っているからでして、尾濃村由緒留という史料にも大野氏の系図が掲載されているからです。
愛知県一宮市大野城
http://sakuraoffice.com/ounozyou.html
大野治長の父、大野佐渡守定長が豊臣鶴松の病気平癒の祈願を尾張津島神社に依頼したと思われる書状。
 
貴札令拝見候如仰先度は色々御馳走令祝着候然者 若君
様之御まほり給候早々持せ上申へく候御陣前ハ隙有間敷
候間御留守ニ参候て可申入候京より御まほりの御禮ある
へく候何様以面具可申入候恐々謹言
 六月廿七日        大佐(大野佐渡守)
                     玄三(花押)
 右馬大夫殿(津島神主)
          貴報          (張州雑志より)
尾張津島神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE

秀吉公の側近に大野道犬という武将が存在していたかどうかについては、当時の史料にはそのような武将はおりません。
征韓の役に道犬が出陣したという事については、名護屋城本丸の側に大野治長陣跡が存在していたとの記録がありますので、道犬ではなく大野治長が征韓の役に出陣したと考えられます。
 
名護屋城大野治長陣跡
http://www.k3.dion.ne.jp/~tnk/01siro/hizen-nagoya/hizen-nagoya.html
http://xantosiro.atumari.net/qsg04
大野道犬ではなく大野修理治長が壱万石余を有していて、大野村付近で近世発展の基盤となる広大な開拓等を行ったとするならば、治長の領地経営の一つの功績なのでしう。
 
現在は京都の自然200選になっています。http://www.pref.kyoto.jp/select200/historical02.html
大野氏と神社仏閣については、治長の弟、大野治房が豊臣秀頼公に命じられ、代官川村久米を普請奉行として、建立した大阪の長慶寺があります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%85%B6%E5%AF%BA_(%E6%B3%89%E5%8D%97%E5%B8%82)
大野治長については、藤原氏氏神である京都吉田神社の斎場所大元宮の正遷宮に勅使、烏丸光広と参列したり、豊国祭に豊臣秀頼公の名代として参列したというものがあります。